第五話 「月光」

 

「うわぁああああ!!」
 
 

慌てて飛び起きた僕の視界に映ったものは、自分の部屋だった。

「はぁ、はぁ・・・夢、だったのか」

どうやらいつの間にか眠ってしまっていたらしい。

薄暗い部屋を見回しながら、僕は頭が徐々に覚醒していくのがわかった。

「またあの夢・・・、もう何回目なんだろう・・・」

額に手を当てながら寝返りをうつ。

ふと、背中に違和感を感じ、手で触ってその原因を確かめる。

そこには汗でぐっしょりと濡れたシーツがベッドに張り付いていた。

着ているパジャマも同様のありさまだ。

沁み込んでからまだあまり時間が経っていないのか、手のひらからは冷たい感触が伝わってくる。

布が濡れたとき特有の手触りとその冷たさに先ほどの光景が思い出される。
 
 

(気持ち・・・悪いや)
 
 

そのまま眠るる訳にもいかず、僕はベッドから抜け出すとふらふらと机のスタンドに向かった。

途中、窓から入ってくる風に気付き、思わず身震いする。

汗のせいで身体がすっかり冷えてしまっていた。

慌てて窓を閉め、スタンドのスイッチに手を伸ばす。

「ピッ」

部屋が明るくなると僕はすぐさまシーツの処理にかかった。

布団を押しのけて一気にシーツをひっぺがす。

さっきの夢を忘れようと、そのことだけに集中する。

ベッドから抜きさったシーツを床に放った後で、自分のパジャマも濡れていることを思い出した。

込み上げてくる不快感に、僕は急いでパジャマを脱ぎ捨てる。

とりあえず代わりに近くにあったGパンとTシャツを着る。

ちょっと変な感じもしたが、どうせもう眠れないんだから、と思い直した。
 
 

「さてと・・・」
 

時計を見ると三時を少し過ぎたところだった。

(父さんは、もう帰ってるな)

僕はシーツとパジャマを抱えると、音を立てないように部屋のドアを開ける。

そのまま静かに洗面所まで行き、洗濯機に濡れたシーツ達を放り込む。

さすがにこの時間に洗濯することも出来ないので、そのまま置いておくことにした。
 
 

「ふう・・・」

全ての作業が終わりリビングのソファーに腰掛けると、先程の記憶が蘇ってくる。
 

無意識の内に僕は左腕をさすっていた。
 
 
 
 
 
 

―――あの後、目が覚めた僕がいたのは病院のベッドの上だった。

左腕には包帯が巻かれ、点滴のチューブが垂れ下がっている。

赤く滲んでいるその包帯が痛々しい。

しかし、不思議なことに痛みはなかった。

あの時は気付かなかったが、麻酔が効いていたのだろう。

反対の腕のほうに意識を向けると、なんだか妙に暖かい。

指を動かしてみると、誰かに握られていることがわかった。

「父、さん・・・?」

その声に反応したのか、手を握っていた人物がこちらを向く。

「シンジ・・・起きたのか!?」

「父さん・・・」

知らないうちに涙が溢れていた。

「大丈夫か?どこも痛くないか?」

握る手に力を込めながら父さんは口を開いた。

「済まなかった、シンジ、済まなかった・・・」

「私が、私が先に行ってしまったばっかりに・・・」

「僕、どうなるの?死ぬの・・・?」

自分の置かれている状況から素朴な疑問がこぼれる。

はっとして僕のほうを見た父さんは更に手に力を入れた。

「大丈夫だ。安心しろ・・・。二週間で此処から出られるだろう」

「そう・・・」
 
 
 
 
 
 
 

ごめんね、父さん。

身体に負った傷は癒えても、あの光景は消えることはないんだ。

血飛沫に染まった僕の身体には、今も見えることのない罪の鎖が巻き付いている。

そう、罪は消されることはないし、忘れ去ることもできない。

ただ、心の奥底に押し込めることしか・・・。
 
 
 

際限ない罪の世界に引きずり込まれかけているのに気付き、頭をぶんぶんと振る。

「喉・・・渇いたな」

あれだけ汗をかいていたのだ、当然身体は水分を求めていた。

ゆっくりとだるそうに台所へ向かい冷蔵庫を開く。

中から流れてくる冷気が頬をなでる。

ペットボトルを取り出してみたら中身のウーロン茶はもうかなり少なかった。

(確か、買い置きはもうなかったな・・・)

(はぁ、これから・・・買ってくるか)

そう思いながらコップに残りを全部注いだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

冷たい夜風が髪を揺らす。

この時間では何の物音もしない。

静謐がこの世界を支配している、そんな風に考えながら僕は道を歩いている。

雲の間から差し込んでくる月の光のおかげであまり暗いとは感じなかった。

しばらく歩いているうちに、噴水のある公園の前まで来た。

噴水の下に溜まっている水が月光を浴びてキラキラ輝いている。

夜中のためか、てっぺんからは一筋の水しか流れていない。

しかし、その頼りなさと月の光が相まみあって儚さを生んでいる。

その光景にいつの間にか僕の足は止まっていた。

(・・・綺麗だ)

美しく、しかしどこか切なげで神秘的な光景はそう、まるで・・・

(綾波みたいだな)

そんなことを考えながら僕は再び歩みを始める。

歩きながら自分がまた綾波をそういう目で見ていることに気付き、ため息をつく。

(僕は人を好きになったりしたらいけないんだ。

 好きになってもらう資格なんてないんだ。

 罪が消えることはないんだから・・・)
 

自分を戒め、考えを追い出そうとしたが、コンビニに着くまで綾波は決して頭から消えてはくれなかった。
 
 
 
 
 
 
 

右手にビニール袋を携え、僕はさっき来た道を歩いている。

2リットルのペットボトルだったから少し重い。

指に食い込むそれに思わず眉をしかめる。

・・・ちょっと痛い。

そのまま我慢しているうちに先程の噴水のところまで来ていた。

そちらに目をやると、噴水の近くのベンチに誰か座っている。

(・・・? こんな時間に人がいる・・・)

そのときちょうど雲が晴れて月の光が直接差し込んできた。

光にさらされてその人物の髪が蒼銀に輝いている。

小柄でどう見ても女性にしかみえない。

(まさか・・・綾波!?)

一瞬、自分の空想が作り出した幻影かと思った。

何しろ先程噴水から綾波を連想していた自分がいたのだから。

しかし、その女性がこちらを振り向いたとき、その疑いは完全に否定された。
 
 

「・・・碇君」
 
 

やわらかそうな唇が自分の名を告げている。

もはやこれは現実でしかありえない。

どういう訳かわからないが、今僕の目の前に確かに綾波がいる。

「あ、綾波?どうしてこんなところに・・・」

「・・・碇君が見えたから」

「え、えと・・・僕が?」

「そう、さっき碇君があっちに歩いていくのが見えたから。私の家、そこだし・・・」

そう言って綾波は公園の向かいのマンションを指さす。

Tシャツにミニスカートという服装のためか振り向いた時に胸が少し揺れる。

その瞬間を見てしまった僕は、赤くなって俯いてしまった。

「碇君?」

指をおろしながら綾波は不思議そうに僕のほうを見つめる。

「え、あ!何でもないよ、何でも・・・」

「・・・そう」

「そ、そんなことよりどうしてこんな時間に?」

「・・・眠れなくて窓から外を見ていたの。噴水が綺麗だったから。

 そこにあなたが歩いてくるのが見えた」

「そっか、そういうことだったんだね。びっくりしたよ。いきなり綾波がいるもんだからさ」

「私も・・・驚いたわ」

急に綾波は俯く。

「まさか、本当に現れるなんて思わなかった・・・」

小さな声だったので何と言ったのか聞きとれなかった。

「え?何?」

「・・・何でもない」

そう言うと彼女は少し頬を染め、噴水の方へ目をやってしまう。

それ以上は聞くのが躊躇われたため、僕は綾波の隣に腰をおろすことにした。

わきにビニール袋を置く。

「・・・」

「・・・」

二人の口が動かない間も、噴水は相変わらず緩やかに一筋流れ続けている。

水の跳ねる音だけが僕達を包んでいた。

「・・・」

「・・・碇君」

「・・・何?」

「碇君は・・・どうしてこんな時間に?」

「・・・ちょっと、夢を見たんだ」

「夢?」

「そう、それで目が覚めちゃって・・・なんだか眠れなかったから」

「・・・そう」

二人とも再び口をつぐむ。

綾波の紅い目が月光を反射して柔らかい光をたたえていた。

夜だからだろうか、彼女の肌はいつもより白く透き通って見える。

「悪夢、だったんだ・・・」

いつの間にか口が動いていた。

僕は瞳を噴水の方に向けたまま話し続ける。

「・・・ずっと、ずっと前の出来事の夢で、あの時から何回見てきたかわからない。

 忘れてしまいたいことだった。でもそれもできないんだ」
 
 

何故綾波に話しているんだろう。

僕の思考とは別に口が勝手に動いているような感じだ。

綾波は僕のほうをじっと見つめたまま黙って聞いている。
 
 

「十年、前かな。母さんの葬式があったんだ」
 
 
 
 
 
 
 

いけない、こんなこと綾波に話してどうする。

どうしようもないじゃないか。

ただ、綾波に迷惑をかけるだけ。

それにきっと自分は軽蔑されるだろう。

また冷たい目で見られるんだ。

僕のことを知った人達がどんな眼をしてきた、もううんざりするほど見てきたじゃないか。
 
 
 
 

・・・じゃあ、何で僕は口を動かしているんだ?
 
 
 
 
 

吐き出したいのか?
 
 
 
 
 
 
 
 

救われたいのか?
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

助けて欲しいのか・・・?
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

相変わらず綾波は僕の顔を見続けている。

「葬式の帰りに、ね・・・」

消えたはずの左腕の傷が再び疼き始めたような感覚に捕らわれる。

あまりの痛さに思わず顔をしかめ、右手でゆっくりもみほぐす。

「どうしたの?」

綾波が心配そうにのぞきこむ。
 

ああ、綾波、僕は君に心配される価値もないのに・・・。
 
 
 

震える肩に彼女が手を置こうとした。

条件反射で肩がぴくっと跳ねる。

それをみた綾波は躊躇いがちに手をゆっくりとおろした。

少し、寂しそうな瞳をして。
 

「・・・ごめん、僕には人に心配してもらう資格なんてないんだ」

「どういうこと・・・?」
 

「僕は・・・人を、殺したんだ」

「!!!」

綾波の紅い瞳が大きく見開かれる。

それでも僕は構わず続けた。

痛む左腕も押さえている右腕も小刻みに震え続けている。

「あの日、街で父さんとはぐれた後、通り魔に襲われたんだ。

 夢中で抵抗したんだ。でも左腕を刺されて・・・。

 血が吹き出るのを見て・・・気がついたら僕のほうが殺してた・・・・・・・」

彼女は複雑な表情のまましばらく黙っていた。

「僕は、人殺しなんだ」

きっとこれで嫌われるんだろうな。

冷たい目で見られて・・・でも、これでいいんだ。

僕は人を好きになっちゃいけないんだから。
 

不意に綾波の唇がかすかに動く。

「・・・でも、仕方なかったんでしょ」

「!!・・・うん。だけど、僕が殺したことには変わりはないし、罪が消えることもない」

予想外の言葉だった。

しかし仕方ないで済む問題でもない。

そんなものだったらこんなに苦しむ必要もないのに。

「・・・」

「今もそう、あれから10年も経ってるのに・・・」

込み上げてくる痛みを抑えるように右手に力を入れる。

もはや左の指は痙攣を起こしているようにしか見えない。
 
 
 
 

「!!!」

その震えが、何か暖かいものによって抑えつけられた。

左手に目をやると、そこには透き通る白い手がある。

そう、綾波が両手で僕の手をしっかりと握っていたのだった。

「あ、綾波!?」

「こうしていれば、多分震えは止まるわ」

「何で・・・」

「碇君が苦しんでる」

「綾波・・・」

「苦しまないで・・・」
 

しばらくそのままの体勢で時は流れ、いつしか震えは止まっていた。

「・・・綾波、もういいよ」

「・・・そう」
 
 
 
 
 

「綾波は・・・怖くないの?」

「何が?」

「僕のこと。軽蔑・・・するでしょ、普通。

 殺したんだよ?僕は・・・」

「何故?確かにあなたは人を殺したかもしれない。でもそれは正当防衛だわ」

「そうだけど・・・それでも僕の手は血に染まってるんだ。

 過去から逃れることはできない。

 だから、いつまでも僕は責め続けられるんだ。他人からも、自分からも」

「・・・」

「時間がいくら通り過ぎても、僕の時はあれ以来止まったまま。

 ・・・こんなことなら、あの時死んでたほうが良かったかもしれない。

 殺して苦しみ続けるより、殺されて楽になってたほうが・・・」
 

パァン!!!
 

突然僕の頬が乾いた音を立てた。

白い腕がゆっくりと下ろされる。
 

瞳に涙を浮かべ悲しそうな表情の彼女が、そのまま僕に抱きついてきた。

呆然としたまま僕はただ立ち尽くしていた。

腕の震えはいつの間にかもう止まっている。

「あ・・・え・・・?」

「・・・死んだほうが良かったなんて、そんな悲しいこと、言わないで」

そう言うと綾波はいっそう強く僕の身体を抱きしめる。

彼女の頬を一筋の雫が伝い、僕の肩へと流れた。

冷たい・・・けど、何だか暖かい、不思議な感触。

「どうして・・・僕に何の価値があるのさ・・・」

「碇君、あなたは知らないかもしれない。でも私は碇君に救われたわ」

「僕が、綾波を・・・?」

「碇君だけが・・・ちゃんと私を見てくれた」

「あやなみ・・・?」

「他の人は違う。みんな私を変な眼で見るわ。

 こんな蒼い髪に紅い目、それに異常な白さ・・・普通の人とは・・・違う。

 最初に私に会ったら誰でも・・・人間ではないかのような眼で見てくる」

「そんな・・・」

「でも碇君は違った。私のことを普通に見てくれる。だから・・・」

鼻をクスンと鳴らしながら綾波は僕の肩に顔を埋めた。

「あ、綾波・・・」

「碇君の過去がどうであっても関係ない。碇君は・・・碇君だから」

「・・・」

「だから・・・そんなに苦しまないで」
 
 
 

いつの間にか、僕も綾波を抱きしめていた。

止めどなく涙が溢れてくる。

「・・・っ・・ありが・・・とう、綾波」

長いあいだ心の奥に閉じ込めていたものが弾けるように溢れ返る。

あの日から決して流すことのなかった涙。

消えてしまったこころのカケラ。

それらが再び僕の中で生まれるのがわかった。

「・・・綾波」

彼女は無言で僕を受け止めつづけている。

「・・・ありがとう。もう、大丈夫だよ」

「そう・・・」

ゆっくりとお互いのからだが離れる。

月の光で揺れる綾波の髪はまるでシルクのように輝いている。

刻むことを止めた時が再び動き出した瞬間だった。
 
 
 
 

「ありがとう」
 

感謝のことばがもう一度口をつく。

こんなに心が穏やかになったのは今まで初めてだった。

綾波は僕の存在を認めてくれた。

そのことが嬉しくて、温かくて。
 
 

身体にしみこんだ血の匂いが消えてゆくように感じられる。

いつだって汚れた手で何かを掴もうと必死だった。

でもそれは許されないと思ってた。

今日までは・・・。
 
 
 
 

僕は、望んでもいいのだろうか・・・。

人を好きになることを。

・・・人に、好きになってもらうことを。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 


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