第六話 「疑問」 |
ベッドに身を投げたまま僕は数時間前のことを考えていた。 揺れるカーテン。それを無意識に目で追う。 いつの間にかカーテンの向こう側から薄い光が差し込んでいる。
「綾波・・・」 自分のことを認めてくれた人。 苦しまないでいいと言ってくれた女性。 単純にとても嬉しかったんだ。 認めてくれた、その事実が。 (・・・でも) 未だに僕は迷っている。 確かに綾波は僕のことを受け入れてくれるかも知れない。 しかし、本当にそれでいいのだろうか。 僕はただ綾波の優しさに依存したいだけなんじゃないだろうか。
「・・・わからないや、自分のことなのに」 そこで思考を中断し、目を瞑る。
しかしもやもやとした何かに妨げられて眠ることはできなかった。
目の前には誰もいない教室が広がっている。 がらんとした空気に少し気後れしながらも僕は教室へ入った。 いつもならこんなことは絶対にない。 大抵僕が学校に着くのはクラスの人が半分ほどきてからだ。 しかし今日は違う。 結局あれからずっと起きていた僕はいつもより早く家を出ることにしたんだ。 おかげで三十分も早く学校についてしまったけど。 「しょうがないか・・・」 席に座ってSーDATを取り出そうとしたその時、突然教室のドアの開く音がした。
「おはよ」 振り返ると僕の後ろにはツインテールの女の子がいた。 「あ、委員長。おはよう」 「珍しいわね、碇君がこんなに早く来るなんて」 「そっかな・・・でも委員長こそ早いよ」 「私は朝の仕事があるからしょうがないのよ」 鞄を自分の席に置きながら委員長の洞木さんは楽しそうに答える。 「お花に水をあげなきゃ、ね」 言って彼女は僕を残したまま教室を出て行った。 教室には以前先生が持ち込んできた鉢植えがある。 最初は先生が世話していたはずなのにいつのまに洞木さんの役目になってしまっていたのだろう。 もともと世話好きなのか彼女もそれを楽しんでいるようだ。
「いつの間に・・・咲いてたんだろ」
窓際に置かれたその鉢植えは太陽の光に向かって花弁を拡げていた。 ゆったりと、だがどこか力強く。 そして懸命に。 多分、以前の僕なんかよりもずっと。 個体の大きさなんて関係ない。 生きることに意味を持てなかった者とまっすぐに生きようとするもの。 そこには大きな、とてつもなく大きな差があるように思えた。
ガラガラ、とドアを開けて洞木さんが戻ってきた。 手には水の入ったビーカー。 鉢にゆっくりと水を注ぐ彼女を僕はぼんやりと見ていた。
「それ、何て言う花なのかな」 水遣りの終わった彼女に何となく尋ねてみた。 何となく、自然に湧き上がってきた疑問。
「これ?」 洞木さんはそう言ってこちらを向いた。 「これはね、マリーゴールド。太陽神に恋した乙女の生まれ変わりなんですって。ちょっとロマンチックよね」 「へぇ。洞木さん詳しいんだ」 「えへへ、ちょっとね。昔から花は好きだったから」 少し照れたような顔をして答えると、彼女は残った水を捨てにまた教室から出て行ってしまった。
マリーゴールド。 その花弁は生命力に満ち溢れた橙に染められている。 あくまで力強く。でもどこか淋しげに。
花言葉は悲哀、そして希望。
以前は花に気をかける余裕なんて無かった。 ただ精一杯に何かを掴もうと必死だったからかもしれない。 こんなにちいさないのちに励まされるなんて、今まで知らなかったし知ろうともしていなかった。 それがわかるようになったのは。 心の余裕をつくってくれたのは―――
「・・・綾波のおかげだよな、やっぱり」
改めて彼女に感謝する。 彼女と知り合ってからまだ日は浅いし、何より僕はまだあまりにも彼女のことを知らなさ過ぎるけど。 それでも自分を救ってくれた唯一の存在。 それはきっと、かけがえのない存在。
でも。 綾波が好きかと問われたら僕にはどう答えていいかわからない気がする。 確かに彼女には惹かれるし、何よりも僕を救ってくれた大切な人だ。 しかしそれは本当に恋愛感情なのだろうか。 もし一番最初に救ってくれたのが別の人だったら、僕はその人にこの感情を抱いていたのではないか。 それはある意味刷り込みのようにも思えた。
わからない。 わからない。 自分の気持ちが、わからない。
が、延々と自分の席で考え込んでいる僕に不意に声がかかった。
「・・・おはよう」
そこで思考は完全に中断された。 その声は紛れもなく・・・。 「あ、綾波?」 顔をあげると目の前に彼女がいる。 そりゃ僕の席の隣だから教室に入ったら綾波はここを通るんだけど。 その、何て言うか・・・何もこんなタイミングで現れなくてもいいじゃないか。 だってさっきまで僕は綾波のことを考えていたわけで。 あ、やば・・・。 全身が火でもついてるんじゃないかってぐらい熱い。 顔なんてきっと真っ赤になっているだろう。
加えて彼女はさっきからじーっと僕を見ている。 じーっと。 じーっと。
「・・・・・・」
で、ようやく何で彼女がずっと僕を黙って見てるのかわかった。 「あ、ごめん、おはよう・・・綾波」 我ながらあきれてしまう。 顔は真っ赤、頭は真っ白になってて自分が挨拶を返すのを忘れてた。 何か心持ち不機嫌な顔をしてるような気がするのは気のせいじゃないんだろうな、きっと。
と。 急にうつむいて黙り込んでしまった。 スカートの前で握られた手が小さく震えている。 その、考えたくないんだけど、僕の返事が遅かったから怒らせてしまったとか・・・。
「あの・・・綾波?」
恐る恐る声をかけてみた。 だってこのまま黙られてても困るし。 それに無言でふるふる震える綾波って何かちょっと怖いんだよね。
「・・・・・・」 「えと・・・綾波さん?」 「・・・なさい」 「え?」 小さくてよく聞き取れない。 彼女は依然うつむいたまま。
「・・・昨日はごめんなさい」 小さな小さな声。 でも今度は聞こえた。 震える声で、震える体で、彼女は僕にごめんなさいと言った。 そこで回路が繋がる。 「あ・・・」 そう言えば昨日・・・日付は今日なんだけど、綾波に引っ叩かれたんだっけ。 記憶とともにまた昨夜の光景を思い出す。
流れる噴水。 叩かれた頬。
抱きしめ抱きしめられた、その体。
真っ赤になってた顔が限界を超えてなお赤くなり続ける。 やば。 心臓がどくどく暴れまわってるのがわかる。 綾波にまで聞こえそうなぐらい大きく脈打っている。
「そ、そんな気にしないでよ。僕が悪かったんだし」 「・・・碇君は悪くない」
顔を下に向けたまま彼女の小さな唇が動く。
「い、いや、とにかく綾波はそんなこと気にしなくてもいいんだから。それに・・・僕のほうこそごめん」
何に対してごめん、なのか。 漠然としているがこれだけは言える。 綾波に謝らせてしまうような状況を僕がつくった。 だからごめん。
昨夜のことで怒ってないのがわかったからか、彼女はほっとしたようだった。 そのまま綾波は自分の席につく。 僕の隣の席。 こんなに近い席でも、窓の外を眺めながらつぶやいた彼女の独り言は僕のところまで届かなかった。
「・・・碇君が謝る必要なんて、ないのに」
彼女の小さな声は予鈴を告げるチャイムの音にかき消されてしまう。 外は青空。 また綾波の隣の席でどぎまぎする一日が始まった。
「そういや、センセは告白せぇへんのか?」 「っ!!! けほっ!!!」
思わず飲んでたお茶を吹き出すところだった。
今は昼休み。 昨日の例にならってトウジ達と屋上に来た、いやむしろ拉致された。 そしてやっぱり給水塔の裏に陣取って昼食を取ってる訳なんだけど。
一つ目のカレーパンを食べ終えたトウジが思い出したように放った一言。 不意打ちということもあって破壊力が大きすぎた。 何とか吹くのは留まったが、その反動でどうやら気管支のほうにお茶が流れ込んだらしい。 苦しい。 数回咳き込んでようやく落ち着いたようだったが、あまりの苦しさに涙がでている。
「・・・けほっ! いきなり何だよトウジ」 「すまん、そない驚くとは思わへんかったんや」
素直にトウジが謝ってくる。 思うに彼は直球すぎる。 こういう事を聞くなら先にワンクッションおいてもらわないと、こっちとしてもいきなり過ぎて心の準備とかできないから困る。
「で、何の話だったっけ」
とりあえずごまかしてみた。 この手の話題は避けるに限る。 何と言ったってからかわれることは間違いないから。
「とぼけても無駄だよ、碇。告白するかしないかって話題だ」
くっ、やはりケンスケは厳しい。 のんびりといちご牛乳のパックをくわえているくせに隙がない。 昨日のやりとりでちょっとはわかってたつもりだったけど、正直コイツに隠し事などできないのだということを改めて実感した。
「で、どうするんだ、碇は」 「ワシもそこが気がかりや」 「・・・・・・」
正直自分でもわからない。 僕は綾波が好きなのか。 授業中にずっと考えてたけどやっぱり答えはでなかった。
「ひとつ、聞きたいことがあるんだ」
自分で答えがでないなら他人の考えを聞いてみればいい。 もしかしたらそれで回路がつながるかもしれない。
「人を好きになるってどういうことなんだろ?」 「「は?」」
二人とも予想外の質問に戸惑っている。 それもそうだろう。 端からみて思いっきり片想いしてます、って奴がこんな質問したら誰だって困る。 ま、だから僕自身困ってるわけなんだけど。
「何て言うのかな、ある人を好きになるにはきっかけ、一連のシチュエーションがいると思うんだ」 「せやな、確かにきっかけがあらへんかったらただの他人や」 「それで考えてみたんだ。もし同じ状況でそれが綾波じゃなく別の人だったら、僕はその人を好きなってたかもしれない」 そう、だからこそ。 この気持ちが偽りならばそれは綾波を傷つける。 そんなのは嫌だ。
「だからさ、本当に僕は綾波が好きなのかわからないんだ。 おかしいよね、自分で自分の気持ちがわからないなんて」 「碇」 「ん?」 先ほどから腕を組んだまま黙って聞いていたケンスケが不意に口を開いた。 いつもの彼とは違いやけに真剣な面持ち。 「それは違うと思うな。いいか、碇。確かにきっかけがなかったら恋は始まらない。 でもきっかけがあるからといって恋が始まるわけでもないだろ?」 「・・・どういうこと?」 「そのきっかけって奴で相手との接点ができても、そこから先にはまだ二つの分岐がある。 相手に恋愛感情を抱くか否かって分岐がね」 「・・・・・・」 「で、おまえは綾波を好きになったんだろ?片方の道に進んだ訳だ」 「確かに綾波のことは好きだけど・・・」 「煮え切らないな。ならどうして碇は綾波を好きになったんだ?」 「どうしてって・・・それは」
理由は、そう。 彼女が僕を受け入れてくれたから。 苦しまなくてもいいと言ってくれたから。 そんな単純なことだった。 だからこそ、あまりに単純だからこそ怖くなる。 僕を受けて入れてくる人だったら誰だって良かったのかもしれない、と。
「・・・綾波に、助けられたから」 「そうか・・・。なら話は簡単だ」 「え?」
ケンスケの口から発せられた単語の意味がわからず素っ頓狂な声がでる。 簡単ってどういうことだ。 こっちはずっとそれで悩んでいるって言うのにアイツはそれは簡単だと言った。
「いいか碇。助けてくれたのが綾波だったからお前は好きになったんだ」 「綾波、だったから・・・?」 「そ。もしもそれが綾波じゃなかったらお前はその人を好きになってたか? んー、身近で言うと・・・例えばそれが委員長だったらどうだ?」 「そんなの・・・わからないよ」
わかる訳がない。 もしあの時あそこにいたのが洞木さんだったらなんて考えても答えなんて出しようがない。 好き、なんて気持ちは実際になって見ないとわからない。 それだけが綾波を好きになった今の僕が出せる答え。
「だろうな。もしもの話をしたところで実際どうなってたかは誰にもわからない。 でも現実は綾波が碇を助けた。そのときお前は綾波だったからこそ好きになったんだろ。 確かにお前の言うとおり様々な可能性があったと思う。 それこそ委員長やらクラスの女子やら見知らぬ女の子やら。 でもその中でお前を助けてくれたのは誰だ?現実はどうだった?」
「それは・・・綾波が」
僕の答えにケンスケはにやっと笑った。 勝利を確信した、とでも言えば通じるだろうか。 ともかくそんな笑い方だった。 そこには余計な感情はなく、例えるなら難解な数式を解き終えたときにこぼれる無意識の笑い。
「それが現実。数多の可能性の中からお前を助けてくれたのはたったひとり、綾波だ。 もしもなんていう並列世界のことを考えても、真実は綾波しかお前を助けてくれなかった」 「綾波しか・・・」 「そう。だから、あの時別の人だったら、なんて考える必要もないし考えても意味がない。 お前はそんなことを気に病まなくてもいいんだよ。堂々と綾波を好きになればいい。 そう考えれば、その気持ちは偽りじゃないだろ?」
そう言ってケンスケは口を閉ざした。 彼の言った言葉を頭の中でもう一度反芻する。 要するに、綾波じゃなかったらという可能性は綾波に助けられた時点で消えてしまった、ということ。 だからそのとき綾波に抱いた感情は綾波に対してしか抱けない本物だと。
「堂々と・・・」 「それでいいんだよ。だいたい恋愛なんて理屈じゃないんだからもっと気楽にいけ」 「うん・・・ありがと、ケンスケ」
何だか気づいてみれば簡単な事だった。 もやもやとしてたものもケンスケの言葉でなくなった。 思わずため息がでる。 確かに別の人の事なんか考えるのはナンセンスだ。 僕は綾波が好きで、綾波を好きだっていう気持ちは綾波にしかないんだから。
「・・・そっか、そうだね」
自分で自分に頷く。 それは進むことに対しての決意。
「よし、センセの疑問は解消されたみたいやな。 昔から恋は理屈やないゆーとるし、あんま深く考えんでええんちゃうか?」 「ま、結局”恋は盲目”だしな」
二人はそう言って朗らかに笑った。 つられて僕も笑い出す。 何だか朝から悩んでたことが嘘のようだった。
・・・が。
「ところでセンセ、まだワシの質問に答えてへんで」
突然ずいっと顔を寄せてくるトウジ。
「え・・・質問って?」 「あかんで、ワシはごまかされへん。いつセンセは告白するんや?」 「あ・・・」 「碇と綾波がくっつくとおおっぴらに写真が撮れるから俺としては早いほうがいいんだけどな」
二人してにやにやしながら迫ってこられると逃げ場がないというか何と言うか。
「「で、いつなんだ(や)」」
はぁ。 一難去ってまた一難。 どうやってこの窮地から抜け出せばいいかという難問が立ちはだかる。 そんな憂鬱な僕の気持ちとは裏腹に屋上を照らす太陽は明るく、雲ひとつない青空が広がっていた。
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